石堂美和子さん(前編)|「ノーベル賞を取る」と鳥肌が立ったオートファジーとの出会い

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2016年にノーベル生理学・医学賞を受賞したオートファジー。実用化に向けた課題に果敢に挑戦しているのが株式会社AutoPhagyGOの石堂美和子さんです。その熱意の源は何か、お話を伺いました。

石堂さんがオートファジーに関わるきっかけは何だったのですか?

私はもともと研究者で、生物学で「膜輸送」と呼ばれる分野の研究をしていました。オートファジーは、膜輸送の中の一つの分野という位置付けになります。1996年から2001年まで、私が京都大学の大学院生だった当時は、オートファジーは膜輸送の研究者の中でもあまり知られていない、とてもマイナーな研究分野でした。使用する実験器具が一緒だったこともあり、のちにノーベル賞を受賞する大隅良典先生の研究室と一緒に研究をしたことが、私とオートファジーの出会いです。

ちょうどこの頃は大隅先生たちの研究が飛躍的に伸びていて、ネイチャーなどの一流誌にたくさんの論文を出していました。その様子は素人目にもわかるほどの熱量でしたし、加えてその後、これまでされてこなかったオートファジーと疾患との関連について研究が行われるようになって、「これはすごいことが起きている。絶対にノーベル賞を取る」と鳥肌が立ったのを覚えています。実際に受賞したときには「歴史的な瞬間を傍で見させてもらった」と思いました。

その運命みたいなものが、石堂さんの熱量の原点なのですね。大学院の後に渡米されますが、そこではどのようなご活躍をされたのですか?

その後の5年間はアメリカのスクリプス研究所で、膜輸送の研究を引き続き行なっていました。ここでは研究所が大手製薬企業と組んだり、ベンチャー企業を多く設立したりしていて、多くの研究者がその2つを自由に行き来していました。研究者としては、このときが一番楽しかったです。

楽しいと感じたのは、どういった理由ですか?

そこで、一流の研究者と触れ合う機会が多くあったからです。性格に難があったり、逆に抜きん出た人格者だったりいろいろな方がいたのですが、みなさんストイックに追い求める姿が本当にすごいと感じました。基礎研究だけに囚われていたら私はこの人たちの見ている景色は見られないと思い、自分の小ささが嫌になったこともあります。でもないものねだりをしても仕方がないので、私は私が使えるものは全部使って、この人たちとは違う独自の道を行こうと決意しました。私が一番面白いと感じたのが基礎研究と応用開発の橋渡しをするトランスレーショナルリサーチで、これがいまの活動の原点です。

その後、株式会社AutoPhagyGOを立ち上げるまではどのような活動をされていたのですか?

日本に帰国するとベンチャーブームが起きていました。私も大学発のベンチャーに就職したのですが、そこがすぐに立ち行かなくなり、緊急避難的に大手製薬企業でマーケティングなどに従事しました。研究とマーケティングは共通するところも多く、妊娠・出産・子育てとプライベートが充実したこともあって、ゆったり仕事をしていました。

そんなときに、昔大隅先生のもとでオートファジー研究に従事されていた吉森保先生がベンチャー企業を立ち上げようとしているという話を聞きました。当時、すでに製薬企業はオートファジーに注目していましたが実用化には至らず、日本がトップを走るオートファジー研究が世界中で進んでいることもあって、私は「早く日本でオートファジーのベンチャーができればいいのに」と思っていました。子育てとの両立で悩みましたが、「これはお手伝いしなければ。立ち上げの一番しんどいところに関わるのは、私の社会貢献プロジェクトだ」と感じ、ご一緒することにしました。

プロフィール

石堂 美和子さん

株式会社AutoPhagyGO 代表取締役社長

東京大学理学部、京都大学大学院卒。理学博士。スクリプス研究所ポストドクトラルフェロー、アールアンドアール株式会社主任研究員を経て、外資製薬企業のヤンセンファーマ株式会社、アッヴィ合同会社でマーケティングおよびメディカルアフェアーズに従事。2019年より、株式会社AutoPhagyGOの取締役を兼任。2020年6月より、株式会社AutoPhagyGOの代表取締役社長に専任。

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